中小企業こそ備えを - 労務整備が未来の企業価値を守る
佐保田 藍 氏
社会保険労務士法人Knowledge Works
代表社員
特定社会保険労務士
事業会社で人事を経験した後、コンサルティング会社において幅広い企業規模、様々な業種の企業における労務課題の解決の支援に従事。現在は社会保険労務士法人Knowledge Worksを設立し、人事・労務に関するコンサルティング支援を行っている。
「うちは人も少ないし、今のところ特に問題も起きていないから大丈夫」――そう思っている中小企業は少なくありません。
しかし、いざIPOやM&A、あるいは事業承継を視野に入れた時、最もネックになりがちなのが“労務の整備”です。
事業承継やM&Aにおける労務整備の重要性と小規模企業が抱える課題
労務整備の遅れは、特に事業承継やM&Aの局面で大きな課題となることが多くあります。
日々の業務に追われる中で、労務管理の整備が後回しにされるケースは少なくありません。
特に、少人数で運営されている企業では、一人の担当者が経理や総務、労務管理など多岐にわたる業務を抱えていることが多く、労務関連の法的基盤の整備にまで手が回らないことがしばしばあります。
例えば、給与計算や社会保険の加入といった基本的な業務は行われているものの、就業規則の整備や労働時間管理の適正化、労働契約書の作成といった重要な部分が不十分なままになっていることもあります。
このような状況が、譲渡先や買収先の会社によるデューデリジェンスの過程で未払い残業代のリスクや法令違反の可能性として浮き彫りになり、買い手が慎重になったり、場合によっては破談になる原因となることもあります。
また、小規模企業では「これまで問題が起きていないから大丈夫」といった認識が根強いことも、労務整備の遅れを助長する要因となっています。労務をめぐる環境はここ十年程で大きく変わっています。
M&Aのような外部の視点が入る場面では、その時の基準、トレンドで問題がない体制であることが必要ですし、これまで見過ごされてきた問題が顕在化しやすくもなります。
特に、労働基準法や社会保険関連の法令遵守が不十分である場合、大がかりな労務管理体制および人事制度の見直しが必要となるため、買い手企業にとっては法的リスクだけでなく、従業員の士気や企業イメージへの影響も懸念材料となります。
このような背景から、小規模企業であっても、日頃から労務管理の整備を進めておくことが重要です。具体的には、就業規則の作成・見直し、労働時間管理の適正化、労働契約書の整備、未払い残業代の精査などが挙げられます。
これらの取り組みは、事業承継やM&Aの場面でのリスク軽減だけでなく、従業員の働きやすい環境づくりや企業の持続的な成長にも寄与します。
さらに、労務整備が進んでいる企業は、買い手企業にとっても魅力的な投資対象となります。
労務リスクが低い企業は、M&A後の統合プロセスがスムーズに進む可能性が高く、買い手企業にとっても安心感を与える要素となります。
そのため、小規模企業であっても、労務管理の整備を怠らず、法令遵守を徹底することが、企業価値の向上につながると言えるでしょう。
労務情報の「閉鎖性」がリスクの温床に
労務に関する情報は、機密性の高い性質を持つため、他社との比較がしづらく、担当者が手探りで業務を進めざるを得ないケースが少なくありません。
その結果、同じ業界や同規模の企業であっても、労務体制の成熟度には大きな差が生じることがあります。
特に小規模企業では、労務管理が属人的になりがちで、担当者の知識や経験に依存していることが多いのが現状です。
たとえば、ある時期に労務を担当していたAさんは、法改正に伴い就業規則や会社のルールを適切に見直し、従業員への周知まで徹底して行っていたとします。
しかし、その後担当者がBさんに交代した際、Bさんは就業規則の修正までは行ったものの、会社のルールや従業員への周知が不十分なまま放置されてしまうことがあります。
このような「担当者による対応のばらつき」が積み重なることで、企業全体としての労務管理が不安定になり、結果として重大な労務リスクを抱えることになるのです。
さらに、労務情報の閉鎖性は、外部からの指摘や改善の機会を逃す要因にもなります。
たとえば、労働基準監督署の調査やM&Aのデューデリジェンスといった外部の目が入るまで、未払い残業代や不適切な労働契約書の存在に気づかないケースも少なくありません。
こうしたリスクが顕在化した際には、企業の信用を損なうだけでなく、金銭的な負担や法的トラブルに発展する可能性もあります。
「危機感はあるが、問題が見えない現状」
近年、働き方改革やSNSの普及を背景に、労務管理への意識が高まっています。従業員からの『前職ではこうだった』という声が、企業に対応を促すケースも増えています。
こうした声は、従業員の期待値が高まっていることを示しており、企業にとって無視できない課題です。
一方で、企業側では「何が法令違反に該当するのか分からない」「どこから手をつければよいのか見当がつかない」といった声が多く聞かれます。
特に中小企業や小規模事業者では、労務管理の専門知識を持つ人材が不足していることもあり、対応が後手に回る傾向があります。
その結果、問題が顕在化した際に初めて対応を迫られるという状況に陥りがちです。
こうした背景から、近年では「労務監査」や「労務デューデリジェンス」のニーズが高まっています。これらの取り組みは、企業が自社の労務体制を客観的に見直し、法令遵守やリスク管理を徹底するための重要な手段となっています。
さらに、労働基準監督署の動きも活発化しています。働き方改革の影響を受け、労働時間の長さや未払い残業代といった問題に対して、是正勧告が迅速に行われるケースが増えています。
特に、労働時間管理が不十分な企業に対しては厳しい指導が行われることもあり、もはや中小企業であっても「何もしていない」では済まされない時代になっています。
【賃金不払いが疑われる事業場に対する監督指導結果(令和5年)】


出典:厚生労働省「賃金不払が疑われる事業場に対する監督指導結果(令和5年)」
このような状況下で、企業が労務管理を軽視することは、法的リスクだけでなく、従業員の士気低下や企業イメージの悪化といった深刻な影響を招く可能性があります。
今こそ、労務管理の重要性を再認識し、適切な体制整備に取り組むことが求められています。
リスクの洗い出しが第一歩
「何が問題か分からない」という状態に陥りがちな企業が多い中、まずは現状を正確に把握することが重要です。
次に、リスクの洗い出しを行い、具体的な改善策を講じるステップへと進む必要があります。
私のところにも「なんとなく危機感がある。ただ、何が問題か分からないからとにかく一度全部見てほしい」という依頼が多く寄せられます。
まずは就業規則の有無や内容の適正性、勤怠記録・残業時間管理の方法、36協定遵守の体制、割増賃金の計算方法、雇用契約書の記載事項などを確認し、現状のリスクを見える化することが大切です。
これらを体系的に洗い出すことで、どこにリスクが潜んでいるのかを明確にすることができます。
表面的な対応ではリスクは解消しない
法改正への対応が「とりあえず育児介護休業法だけ修正した」といった“その場しのぎ”で終わってしまうケースも少なくありません。
しかし、こうした部分的な対応では、根本的なリスク回避にはつながりません。むしろ、見落としや対応漏れが新たな問題を引き起こす可能性もあります。
近年では、労務管理の効率化を目的にシステム導入やアウトソーシングを活用する企業も増えています。
しかし、誤った管理方法や計算のままシステムに設定したり、アウトソーシングに依頼をしてしまっては何の意味もありません。
これらに頼るだけではなく、「なぜこの整備が必要なのか」「自社にとってどのようにリスクを軽減できるのか」を経営者や担当者がしっかりと理解し、主体的に取り組む姿勢が最も重要です。
労務管理の整備は、単なる法令遵守のためだけではなく、従業員が安心して働ける環境を整え、企業価値を高めるための重要な投資です。
表面的な対応にとどまらず、根本的な改善を目指すことが、これからの企業経営において求められています。
労務整備は企業価値を高める基盤
繰り返しになりますが、労務管理体制は、経理・法務と並ぶ企業の重要基盤であり、上場やM&A、事業承継では成否を左右します。「何から着手すべきか不明」な状態から脱し、現状把握と改善への行動が不可欠です。
信頼できる専門家との連携を通じ、全社的に労務整備をリスク回避だけでなく企業価値向上への戦略的取り組みと位置づけ、積極的に進めることが重要です。
小さな一歩からでも、未来の企業価値を守るための備えをしていきましょう。
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